知識経営ルネサンス~古くて新しい経営資源の利活用~
ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は、明治時代の中期に来日して小泉八雲と名乗り、文学作品を通じて日本文化を海外に紹介した人物である。しかし、彼は本来新聞記者であり、来日した契機も雑誌の通信員としてであった。日本の昔話を描いた短編集「怪談」が現在でも読み継がれているのは、神秘性の中に迫真の写実力があるためであろう。
ハーンの短編の1つ”A living God(生ける神)”は、幕末の安政元年(1854年)11月5日に発生した安政南海地震の際に、和歌山の海岸の村に押し寄せた津波のエピソードを克明に伝えている。
地震が起きたとき、村では豊作を祝う夜祭りが行われていた。村人は祭りに気を取られ、地震に気付く者はいなかった。しかし、ただ一人、村の庄屋を務めていた老人だけは違っていた。潮が沖へと急に引いて、広い海底がむき出しになっていることに気付いたのである。老人は、間もなく津波がやってくることを察知し、収穫した稲に火を放ち、高台へと村人を誘導した。これにより、危機一髪のところで400人の命が救われることになった。このエピソードは、後年小学国語読本に掲載されるなど、偉人伝として親しまれている。
ここでは、老人が備えていた知恵(intelligence)の重要性について考え直してみたい。そのために、地震が発生してから村人の命が救われるまでの一連のプロセスを検証してみよう。
まず、「地面がわずかに揺れた」「海が沖へと引いた」「海底がむき出しになった」という「データ」の異変を察知したのは老人だけであった。庄屋として村祭りを滞りなく終える責任があった老人は、誰よりも広い視野で注意を怠らなかったために、データの異変を「情報」として入手することができた。
次に、老人が津波の接近を予測できたのは、子供のころに祖父から教えられたことをよく覚えていて、海の異変を津波の前兆と推測できる「知識」が身についていたからだった。
さらに、その「知識」だけでも村人は助からなかった。村人全員に知らせて回ることや、高台にある寺の住職に鐘を鳴らしてもらうことも考えられたはずだ。しかし、その猶予はなかったのである。彼は、急いでたいまつに火をつけて、できるだけ高台に近い稲に火を放ってまわった。そうすれば、誰もが驚いて高台に向かって駆け出す、と機転を利かせたのである。老人には、非常事態でも知識を総動員して最善の方法を冷静に模索できる「知恵」があったのだ。
老人は、目先の利益を捨て、大局を見て臨機応変に行動した。知恵(intelligence)を発揮し、村人の命を救った。その背景には、祖父からの知識の伝承があった。知識が備わっていたからこそ、情報の意味を理解できた。さらに、長年の責任ある立場に基づく知恵があったからこそ、情報を有効に活用し危機を回避することができたのだ。
さて、ここで現代に目を転じてみよう。日本は地震国であり津波の脅威に変わりはない。海岸沿いの街に津波が押し寄せたとして、当時と同じように一人の犠牲者も出さずに済ませることはできるだろうか。住民を津波の災禍から救うことは、現在のわれわれにとっても相変わらず重要な責務である。
人口の流動化や世代間の断絶が進んでいる現代においては、むしろ知識の伝承、知恵の共有は困難になっている。コミュニティ(共同体)において、どのように知識や知恵を共有し、有効に活用していくかを考えることは、われわれに課せられている重要なテーマと言えるだろう。
![]()
![]()
1992年 株式会社 日立製作所へ入社。
システム開発研究所、情報・通信開発本部では、多数の主力ミドルウェア製品の研究、先行開発に携わる。
2000年より同社ビジネスソリューション事業部にてITコンサルティングに従事し、都市銀行、電力・ガス会社等、有力企業の情報システムアーキテクチャーを策定。
2002年より日立グループ約20社横断のナレッジマネジメントPJにて中核メンバーとしてリーディング。
2007年 株式会社 日立コンサルティングへ入社後、現職に至る。
次世代のナレッジマネジメントのコンセプト策定サービスを提供。並行して、自社内でも実践中。豊富な経験を生かし、お客さまの「ナレッジパートナー」として活躍中。
